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PRの歴史

もともとPRについては、アメリカでPRが生まれるきっかけになったのは独立戦争だといわれています。いかに大衆の支持を取り付けて多くのステークホルダーを巻き込んで独立という目的を達成するか。
その時に考え出されたアイデアや方法がPRの基となっている様です。
その後民間企業に多く利用されて、PR会社が誕生しています。アメリカのPR市場は日本のおおよそ10倍。世界トップのPR会社を見ていると、上位10社のうち7社が米国系でもあります。

19世紀には、「パブリック・リレーションズ」という用語が誕生しました。また、19世紀後半に始まった資本主義経済の発展による大きな社会変動は、20世紀に入った後にPR概念の形成につながっていきます。

19世紀末に始まった大きな社会の動きを背景に、大手の企業、鉄道、銀行、公益事業などのビジネスが著しい拡大を続けました。その結果、20世紀に入ると彼らと公衆との間の対立関係はより本格的なものとなりそして、この対立関係を解決するために必要とされたのがPRでした。19世紀末に芽生え始めた PRの概念は、企業と民衆との対立を背景に、20世紀に入り、質的にも量的にも本格的な発展を始め、PR発展のプロセスについては、いくつかの分類がみられるが、いずれもおおよそ数段階に分けられますのでご紹介致します。

・第一期(1900~1928年)パブリシティからパブリック・リレーションズへの発展
・第二期(1929~1938年)パブリック・リレーションズの成熟
・第三期(1939年~)パブリック・リレーションズの普及と実務拡大

第一期(1900~ 1928年)
20世紀に入ると、ビジネスの横暴ぶりに対する労働者や消費者たちの不満はさらに高まり、ビジネスと人々の利害の対立はますます拡大していきました。そのため、労働者や消費者は発言力を増すにつれて、ビジネスに対して抗議の反乱を起こすようになった。さらに、それらの反乱は、セオドア・ルーズベルトをはじめとする政治指導者たちによって後押しされていった。ようやく世論の批判を痛感したビジネス指導者たちは、経営面における危機を感じ始め、それが近代PR誕生の契機となりました。

この時期、PRへ救いを求めていたビジネス界で活躍し、今日の実務家が用いているPRの技法と原則の多くを生み出した人物がアイビー・リーである。
彼は、プリンストン大学を卒業し、ウォール街で新聞記者を経験した後にPR実務家としての道を歩み始めた。リーは、1903年にシェス・ローをニューヨーク市長に当選させるための選挙運動を通して PR の仕組みを学んだ後、1904年の大統領選挙戦でマルトン・D・パーカー判事のパブリシティ担当者となった。当時、人々は、政府のPR活動については漠然とした考えをもっているにすぎなかった。にもかかわらず、行政が広告や宣伝を行うことは、行政官が自らの勢力を広げ、私腹を肥やし、かつ失敗や誤りを隠蔽する手段とみなしていたのである。そのため、政治家に影響を及ぼすために企画されたサービス、メッセージや出版物のための流用金の活用は禁止され、新聞へのスポット記事の送付以外はどのような政府出版物も特定の人以外には送付してはならないとした箝口令(Gag Law)が定められた(1919年)。
このように政治にとっては厳しい状況のなかで、パブリシティの知識と熟練技能を政治目的のために巧みに用いたのは、セオドア・ルーズベルト大統領であった。彼は、大統領就任後、まず第一線の新聞記者たちとの意思疎通を図った。そして、大統領のリーダーシップのための強力な用具としてニュース媒体を存分に活用し、法律を改正し、その過程で大統領職を改正したのである。

1916年の大統領選挙に勝ったウッドロー・ウィルソン大統領は、世論の重要性を認識しており、コミュニケーションのための代理機関を使う価値を認めていた。そのため、1917年4月の参戦に先立ち、ジャーナリストのジョージ・クリールの進言に応えて、国民の世論を結集するための広報委員会としてCPIを編成した。クリールが委員長を務めたCPIは、連邦政府における初めての専門職によるパブリシティ集団であった。

社会科学者もPRに学問的関心を向けはじめ、世論の研究、プロパガンダの分析、社会における圧力集団の仕事の観察が進められた。その結果、第一次世界大戦後には、市場調査、社会調査、世論調査が大きく進歩することとなった。

20世紀に入ると、19世紀末に始まった大手企業、鉄道、銀行、公益事業と公衆との対立関係がさらに拡大したことによって、PRが必要とされるようになった。
それは、発言力を増した労働者や消費者の増幅した不満を認識したビジネス指導者たちが、自分たちのビジネスを維持・発展させるために公衆による理解と信頼関係が必
要であることを痛感したからである。そんな彼らに代わって民衆の不満を静め、公衆との信頼関係を築くためにパブリシティの専門家が求められ、パブリシティは大き
く発展することとなった。このPR初期における重要な点は、次の2点である。
まず、第一に、「パブリシティ」概念の域内であったPRが現代の「パブリック・リレーションズ」に向けて大きく歩を進めたことである。これは、アイビー・リーの活躍によるものが大きい。リーは、1919年までは、「パブリシティ」という言葉を用いていた。しかし、その活動には、すでに今日でいうところのPR機能がみられた。リーは、PRが、民衆の注意を引くことをねらいとする「プレス・エージェントリ」と言われる段階から始まり、ビジネスなどにおいてニュース価値のある活動に関する情報を発表する「パブリシティ」を経て、公衆の理解と信頼を得るために真実に基づいた情報を提供する「パブリック・リレーションズ」へと進化するうえで大きな影響を与え、今日のPRの基本姿勢を確立した。そして、このPRへの進化により、公衆はそれまでのようにビジネスから無視されることはなくなり、「知らされる」存在となったのである。第二に、防衛手段として誕生したPRは、第一次世界大戦下のCPIの広報活動によって「攻撃」という新たな一面が加えられた。当時のCPIの活動は、まだ「パブリシティ」という範囲を超えることはなかったとされる。
しかし、CPIは大量のパブリシティの力と世論操作の技法を用いて、ビジネスマンやエグゼクティブに対していかに有効にPR実務を利用できるかを示すとともに、行政・政治における近代的な広報活動の先駆けとなったのである。そして、その背景には、バーネーズの広告・広報顧問としての活躍のなかにみられるように、ニュースは単なる「事実の伝達」ではなく、「民衆の本能的反響を引き起こすために設計、伝達されるもの」という概念の変化があった。

 

第二期(1929~ 1938年)
アメリカの社会環境の変化と第一次世界大戦で得た教訓を推進力に著しく発達したPRは、1929年の株式市場の崩壊とそれに続く大恐慌(1929-1933)によって一
つの区切りを迎える。この時期、ニュー・ディール政策を進める政府とそれに対応するビジネスによって、PRは今日の理念を形成し始めたのである。

企業のリーダーたちは、人びとの悪化する窮状に無関心であった。彼らの多くは、社会的貧困に対処する義務を考えようとせず、政府に対応を求めようとしなかった。それどころか、自らが直面している社会的窮地さえほとんど理解していなかったのである。このように産業界が激しい社会批判に取り巻かれるなか、1933年3月4日にフランクリン・D・ルーズベルトが第32代大統領に就任した。フランクリン・D・ルーズベルトは、大統領就任当初から広報に高い優先順位をおいていた。ルーズベルトは、それまでは儀式的であった報道機関とのやり取りを改め、特派員たちが口頭で自由に質問ができるようにしたことで彼らからの信頼を得た。さらに、出版・新聞ジャーナリストたちとの頻繁で友好的なやりとりを通して広報活動のノウハウを吸収した。また、彼は、ウィルソン大統領がクリールにPRを担当させたように、ルイス・ホウを主席顧問として起用した。ホウは、全国で報道されるニュースや論説の要旨を大統領に周知させるためのプレス会議を毎日開催した。さらに、「不幸は人間の心がつくる」として、よく知られている微笑戦略、炉辺談話を立案するなどPR面での
実績を積んでいった。ニュー・ディール政策のもと、F・D・ルーズベルト政府の広報は、新聞をはるかに越える領域まで達した。政府は、PR活動において重要な役割を担っていたパブリシティ部を拡充し、さらに新たにパブリシティ部を設け、多くの新聞記者を雇い入れた。また、広告代理業を使用して政府による報道方法の強化を図るなど、PR活動に加速度的な勢いで拍車をかけた。その結果、行政各部門のパブリシティ担当者の数は常勤146名、非常勤124名、計270名にのぼったという。

これら広報活動の強化によって、1920年代に現れていた民衆の政治的無関心は、大恐慌に対するニュー・ディールへの支持に転換していった。そして、このころからPRは、統治の方法となっていったのである。

ビジネス指導者は、世論の強い批判にさらされる一方で、組織の内部においても組合の突き上げや急速な職員のモラル(士気、勤労意欲)の低下が顕在化するという危機を迎えた。こうした危機的状況に直面し、ビジネス指導者は、いやおうなしにそれまでのビジネスのあり方を見直し、修正を加える必要に迫られたのである。そこで、F・D・ルーズベルトの厳しい批判と法改正に対抗するため、スタンダード石油、ペンシルベニア鉄道、ニューヨークガスなど多くの会社は、それまでの新聞に対する無関心な態度を大きく変え、アイビー・リーやジョージ・パーカーなどPRマンの進言を尊重するようになった。その結果、ビジネス界において公衆との関係の重要性が認識され、「社会的責任」の自覚、「公共の利益」への奉仕、「ガラス張り経営」といった理念が普及していった。

PRが政府にとって統治の方法として重要な位置を占めるようになった点である。そのきっかけとなったのは、連邦政府が、民衆による「自由な資本主義市場の害悪に対する抵抗」の指導者という立場を明らかにしたことであろう。その背景には、選挙権の拡大によって民衆が投票層に加わり、政治指導者にとっては、民衆の声と要求に対する配慮が新しい関心事となったことが考えられる。政府は、広報機能を拡充し、その結果、1920年代に芽生えた政治への無関心を大恐慌に対するニュー・ディール支持へと転換することに成功したのである。

次にに、「社会的責任」、「公共の利益」という PR の基本的理念の形成と「パブリック・リレーションズ」という用語の普及である。ビジネス指導者たちは、ニュー・ディール政策による連邦政府の産業界への介入により、自らがおかれていた危機的状況を認識するようになった。そこで、解決策を求めてPR専門家たちのアドバイスを積極的に取り入れ始めた。その結果、彼らは企業の社会的責任を自覚するとともに、公共利益への奉仕、ガラス張り経営といった概念をビジネスに広く取り入れるようになった。そして、それとともに「パブリック・
リレーションズ」という用語が用いられるようになっていった。

そして、「双方向コミュニケーション」という理念が加えられた。アイビー・リーは、かつてその概念を「双方向交通」と名づけたが、当時はその必要性は認められなかった。しかし、この時期になって、ギャラップの世論調査、市場調査のための技術が飛躍的に進歩したことで、PRに新たに「公衆に聞く」(インテリジェンス、あるいはフィードバック)という一面が付加されたのである。

3.第三期(1939年以降)
ニュー・ディールの数々の施策を支えてきたPR活動におけるパブリシティ・メカニズムは、第二次世界大戦(1939年-1945年)の勃発により、再び戦時パブリシティとして戦争目的遂行のために用いられるようになった。専門的人材は、アメリカのPRが発展する上で大きな推進力となっていった。特に、軍隊・産業・連合分野におけるOWIの活動は量的にも質的にもCPIをはるかに上回り、大きな影響を与えた。そして、第二次世界大戦が終結に向かうにしたがって、世論を操作するという観念が次第に当たり前なものとして広がっていった65)。1945年に第二次世界大戦が終結すると、強大な権限により統一的に政府全体のPRプログラムを調整したOWIは姿を消し、代わって多くの機構が個別的に設けられた。これら個別に運営されるインフォメーション及びインテリジェンス(フィードバック)機構は、各自で急速に発達していき、なかには「目に見えない政府として脅威を感じさせるまでになった」とされる。一方、大統領と主要各省庁においても、インフォメーションおよびインテリジェンス(フィードバック)活動が同様に拡充、強化されていった。例えば、ホワイトハウスでの記者会見は、政府の政策が国民に語られる場として重要性を増し、報道担当秘書官の役割も増大した。

連邦政府各省庁には、トップ・マネジメントの一部にPR専門家を擁する広報部局が設置され、その指導・調整の下にインフォメーション・インテリジェンスの両過程にわたって組織された活動を展開。アメリカの地方自治体では、行政の全般的なPR活動である「一般PR」よりも社会保障、公衆衛生、教育など各分野での「個別PR」が先にスタートしたため、「個別PR」は、「一般PR」よりも優位な立場にある。そのため、通常の行政PRは、個々の部局に設置されたPR担当課係に委ねられ、そこでPRのスペシャリストにより展開されてきた。

発展の背景には、第一次世界大戦、経済大恐慌、第二次世界大戦など緊迫した社会情勢がPR発展の大きな契機となってきたことがみえる。これらの緊迫した時期は、いずれもビジネスや政治が民衆との関係において課題を抱えていた。彼らには公衆からの支持が必要であったことから、公衆の理解と信頼を得る努力の中でPRの概念が形成され、技法が発達したのである。そもそもPRが誕生する20世紀初めまでは、ビジネスの指導者や政治家たちは、民衆は何も知らないほうが扱いやすいと考えており、人々が入手できる情報は非常に限定されていた。そのため、民衆のビジネスや政治に対する興味は低く、ビジネスや政治にとっても、民衆の支持を得るための努力はパブリシティの範囲で十分であっ
た。しかし、全国紙やラジオなどのメディアの発展などにより、民衆がより多くの情報を手にすることが可能になるにつれ彼らの知的好奇心が高まり、ビジネスや政治により多くの関心を持つようになった。その結果、ビジネスの指導者や政治家たちは、民衆から支持され信頼を得るためには、より高いレベルのコミュニケーションが求められるようになったのである。

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